PROFILE

松本茂高  Shigetaka Matsumoto

1973年神奈川県生まれ。21歳の時に初めて訪れたアラスカの原野に圧倒され、現在もアラスカを中心とした旅を続けている。
ニコンサロン新宿、モンベル、コニカミノルタプラザ新宿、山梨県北杜市津金学校などで個展を開催。




2017年9月20日水曜日

錦秋

Autumn with beautiful leaves



降り続いた秋の長雨もようやくあがり、雲間から射し込む朝の光は、辺りを錦秋の世界へと一変させた。





As for the autumn long rain which continue to fall for a few days, it's finally stopped raining.

Light of morning to come in through a cloud let an area change completely to the world of vividly colored autumn.






2017年9月17日日曜日

遥か彼方の世界 クマとの出会い

The world of the far-off distance


Sharing in time with wild bear

赤く染まったナナカマドと緑のハイマツの斜面に黒い塊が見えた。どうやら若いヒグマのようだ。


背後の山の斜面には色鮮やかに赤く染まったナナカマドと緑のハイマツのコントラストのが美しい。しばらく見ているとおやっと思い、その風景の中で一点だけ黒い塊が少しだけ動いたような気がした。急いで300mmのレンズをカメラに装着して確認するとやはりヒグマであった。本来、野生動物は見事な保護色になって風景に取り込まれていると思われるが、案外その広大な風景の中では一点だけ異色な存在をかもしだしている。点のような距離で、時折、顔をあげて辺りの匂いを嗅いで警戒をしながら地面のベリーをしきりに食べていた。

肉眼ではクマとは判らないほどの遠く離れた点のような距離ではあるが、本来、野生動物と人間とは、相容れない遥か彼方の世界で生きているもの。そして、遠くの山の斜面でベリーを食べる若いクマと自分がまさにこの一瞬を共有している。ここはアラスカの原野ではないのだ。クマの背後には広大な大雪山の原野が霧の向こうまで続いている。その時、初めて大地は意味を持ち出したような気がした。

日常生活に追われるような慌ただしい時間を生きる中で、日本のどこかで遥かな時間を生きるクマと出会うということはなんて幸せなことなのだろうと思う。



八月のアラスカの原野でも見られたブルーベリー(クロマメノキ)


真っ赤に染まったナナカマド


最初の二日間、雨と霧が辺りをすっぽりと包み込んでいたが、三日目の朝、山肌を包んでいた雲が動き出し鮮やかに染まった大雪山の山肌が姿を現した。降り止まない雨はない。





2017年9月16日土曜日

雨粒

Raindrop


灰色の空が、阿寒の森へ降りてきて、霧と靄とあらゆる種類の雨があたりを満たす。雨と風が強まる中、誰もいない森をわざわざ一人で歩いてみた。

風はさらに勢いを増し、木々は轟々と音をたて、いつもは静かなオンネトーの森に様々な音を与えてゆく。レインウェアのフードも被らずに森を歩くと、雨粒は髪の毛を濡らし、顔を流れ、首筋を伝って服を湿らせた。雨の不快感に文句をつけたところで仕方は無いと諦める。しょせんこの森の主は雨なのだ。

アラスカの先住民の考えによれば、雨を含むあらゆる天候、自然現象には、スピリット(魂)と意識があるという。この森に生きた先住民アイヌの人たちにもこのような考え方があるのだろうか?もしこの考えが本当だとしたら、この地球上のあらゆるすべての自然現象にも魂が宿っていて、それぞれ意識を持っていることになる。そういう意味で僕も森も風も雨粒もあらゆるすべてのものは対等な存在だ。そして、森はスピリチュアルな力をもつ存在たちの共同体だとしたら、誰からも見られない孤独はあり得ないことになる。
とはいえ、雨と風が強い中、一人で森を歩くことはある種の不安や恐怖や様々な感情が湧き上がり、それなりの孤独感を味わえる。





















2017年9月10日日曜日

傍観者

Bystander



先日、まだアラスカを訪れたことのない方と写真を見せながら旅の話をしていると、その方は僕に今回の旅で何に感動しましたか?と尋ねられた。
ふと考えてみる。
しばらく考えた後、渡り鳥の声の話をしたと思う。
でも、その時に話そびれてしまった話をもう一つこの場でお話させてもらえればと思う。


ある夕暮れ時に急峻な崖のはるか下にグリズリーの母グマと子グマの親子を見つけた。
肉眼では点のような距離で、特に近くでもないし、迫力のある写真や背後の広大な風景をバックに絵になる写真も期待はできないので、ぼんやりと崖の下の親子の姿を眺めていた。そのクマの親子はもちろん僕の存在には気がついていない。ただ移動の途中で崖の下を通っていただけのようだ。そしてその母グマは移動途中で時折立ち止まり、歩みの遅い子グマを気にかけるように振り返っては、子グマが追いつくのをじっと待っていた。子グマも別段、歩みを速めて母グマに追いつくこうと急ぐ訳でもなく、マイペースでゆっくりと母グマに近づいてゆく。やがて子グマが母グマに追いつくと母グマは安心したかのように、そのまま遠くへ消えていった。

ただそれだけの出来事である。
でも、クマが見えなくなった後、感動でとても胸が熱くなりしばらくその場から離れることができなかった。
一体、僕は何に感動したのだろう?
熊と自分の背後にとてつもなく懐の深い大きなアラスカの自然に感動したのだろうか?
そして、その時の僕とクマの親子との触れ合うことない時間を共有できたことであろうか?
結局はよくわからない。

僕は傍観者でいたいのだと思う。
決して彼らのリズムを崩すこともなく、空気のようになり、野生動物を遠くから静かに見つめていたいと思う。



















2017年9月8日金曜日

バックパック

Backpack



たくさんの夢が詰まってずっしりと重く肩と背中に食い込むバックパック。しかし、腰ベルトをしっかりと締め、体に固定した途端、魔法のようにこの背負った重さが分散される。

もうこのザックとも10年以上も極北の原野を一緒に旅をしたと思うとなんだか感慨深い。そして、最初にアラスカで使用したのがまさにこの場所だった。それからブルックス山脈や氷塊の浮かぶ北極海、アラスカ太平洋沿岸部やクイーンシャーロット島、そして巨木の立ち並ぶバンクーバー島の原生林。様々な夢を詰め込んで一緒に旅を共にしてくれた。

最近は、ところどころほころびが目立ち始め、色もすっかり変わってきてしまった。でも、まだまだ現役でバリバリ行くつもり。新しいものに買い換えようにも、このザックに変わる安定感のある大きなバックパックが見当たらないのだ。だからもう少し頑張ってくれるかな。今以上に大事に使うから。


Denali National Park and Preserve, Alaska  Aug 2017

しばらくテントを張ってデナリが姿を現すのを待った日々。シャイでなかなかその姿を見せてくれない。パッキングを済ませ、この場所を離れなければならない日の朝、初めてデナリがその全容を現した。何度もこの場所を訪れて何回も見てきているのに今更ながらに、こんなにデナリって大きかったっけと思う。しばらくの間、名残惜しくてぼんやりと眺めていた。

極北の原野を吹き抜ける風がなんとも心地よい。また来るのだろうな、きっと。


Denali National Park and Preserve, Alaska  Sep 2007

10年前、初めてこの場所からこのバックパックを背負ってデナリを眺めた。その時の感動が今もずっと続いていて、またこの場所に足を運ばせてくれているのかもしれない。
10年の時を経て、デナリとその麓に広がる原野は、厳然としてそこに在るだけだ。



Denali National Park and Preserve, Alaska Sep 2007


このバックパックのにはたくさんの夢が詰まっている。




2017年9月5日火曜日

黎明

The dawn



青の時間と淡い桃色の時間。
そして日の出を迎える。


Denali National Park and Preserve, Alaska











2017年9月4日月曜日

極北の秋

Northern fall colors



8月も後半を過ぎ、白夜の終わりを告げるとともに、夜の冷え込みが極北の大地の色に変化を与える。
そして数日も過ぎれば大地は緑から黄色、そして赤色へと変わってゆく。
紅葉のピークのすぐ後には降雪を迎え、根雪となり長く厳しい冬が待っている。


デナリ国立公園 8月下旬



自分が歩いて来た場所を振り返ると、カリブーがゆっくりと稜線を移動していた。










Denali National Park and Preserve, Alaska  Aug 2017